書を持ったまま町に出よう

引きこもりぎみ方向音痴なアラサーOLが旅行したりする。歴史/美術/古典芸能すき。博物館・美術館/史跡巡り/謡蹟探訪メイン。

小鍛冶謡蹟めぐり⑦ 稲荷山の長者社(御剱社)

伏見稲荷大社本殿の背後にそびえる稲荷山は「お山」、その山中の神蹟を巡拝することは「お山巡り」と呼ばれており、盛んにおこなわれていたことが『枕草子』にも残されています。

 

貼ってあった案内図です。

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稲荷山の長者社(御剱社)と小鍛冶伝説 

三条小鍛冶宗近が小狐丸を鍛えたという伝説の残る場所のひとつです。

御剱社の向かって左手に「焼刃の水」と呼ばれる井戸もあります。

 

御剱社 

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焼刃の水

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 稲荷大社の神官・秦氏西大西親盛により享保17年(1732)に編纂された『稲荷谷響記』には「伏見稲荷大社を信仰していた三条小鍛冶宗近が、神託を受けて稲荷山の土をもって焼刃用の土とし、現れた狐の教えに従って刀を打った。この刀はたいへん素晴らしく宗近は名を上げた」との伝承が残されています。

 

長者社(御剱社)について

長者社はもともとは秦氏の祖神を祀った社です。

伏見稲荷神社を創建した秦伊侶具を長者とすることから、ここは稲荷山のなかでも最も古い神蹟とされています。

御祭神は加茂玉依姫。『山城国風土記』の賀茂神社縁起で、賀茂建角身命の娘であり川上から流れてきた丹塗矢によって賀茂別雷命を懐妊したと伝わる女性です。

 

雷石

 

本殿背後にそびえる巨岩。しめ縄が巻かれています。

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大きすぎて撮れないので、御剱社との対比。

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触るとご利益があるとのことですし周囲に囲いがあるわけでもないので、触ってもいいようです。なんともフレンドリーですね。

この雷石については、『稲荷谷響記』のなかに、「その昔この岩に雷が落ちたので、神人がその雷をこの岩に封じ込め、縄で縛った」との伝承があります。

雷をとらえる話というと、日本最古の仏教説話集『日本霊異記』上巻の第一話「雷を捉へし縁」で少子部の栖軽が雷を捕まえる話が有名ですね。こちらは雄略天皇の時代ですが。

「雷石ハ剱石ニアル大巌是レ也」と記されており、雷石イコール剱石ということのようです。

一方で、雷石と剱石は別で、御剱社ができるまでは剱石を見ることができた(つまり社殿内には剱石がある)…という話もあるようです…?

 

ちょっと高いところから撮影。

正面にあるのが御剱社、画面左側に見えるのが雷石です。 

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向いのお茶屋さんではお茶とお菓子のセットがありますので休憩におすすめ。

剱石お煎餅がとてもかわいいです。疲れた体にお茶と甘味がしみます。

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多度大社にお参りして脱片参りしてきました

「お伊勢参らばお多度もかけよ、お多度かけねば片参り」とうたわれる多度大社。

伊勢神社には何度もお参りしているので、ようやく脱片参りです。

 

アクセス

名古屋駅から近鉄で桑名駅まで来たので、乗り換えて養老鉄道多度駅へ。

養老鉄道ICカードが使えないのでホーム上の改札で一度清算し、養老鉄道の切符を買います。 

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多度駅

 

途中で「宮川清めの池」という池がありました。多度大社への参拝客はここで身を清めたとのこと。

写真だと分かりづらいのですが、透明度が高いです。 

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向いには「いにしえコース」とかかれた鳥居があるので進んでしまいそうになったのですが、ここは大社への参道ではないようです。

 

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多度稲荷神社

正面に鳥居が見えてきたと思うと、右手に多度稲荷神社が見えます。

狐が「コン」と鳴くことから「婚活守り」を授与しているそうです。

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多度観音堂

さらに道の先には多度観音堂があります。

戸は閉まっているのですが、自由に中を拝観することができます。(猿が入り込むので開けたら閉めるよう注意書きがありました)

千手観音菩薩立像と十一面観音菩薩立像が並んでお祀りされています。

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多度神社

稲荷神社から曲がってしまったので正式な参道ではないところから多度大社の境内に入ってしまっていました。

 

上げ馬神事の坂と神馬

鳥居を抜けた先が、境内への階段と上げ馬神事の坂が見られる参道になっていました。

上げ馬神事の坂、ほぼ絶壁です。 

下から見上げたとき。↓

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上から↓

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神馬の「錦山」号。

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基本の参拝時間はこちらにいるようです。プロフィールも公開されています。

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新宮社

新宮社は天津彦根命幸魂、天目一箇命幸魂を祀っているとのこと。

多度大社が織田信長の兵火によって甚大な被害を受けたのち、慶長年間の桑名城主本田忠勝による復興ではじめにご神体が移されたとのこと。

桑名は長島が近いからなのか織田信長のせいで被害を受けたところが多いようですね。

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境内はゆるやかな上り坂です。

宝物館やキリシタン灯籠(詳細は不明)、松尾芭蕉の句碑や摂社などがあります。

 『宮人よ 我が名を散らせ 落葉川』

松尾芭蕉が多度の地を訪れたのは元禄二年(一六八九)。この句は参拝した際に折に詠んだ句です。 

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道をのぼっていくと見える茅葺の門を通り、さらに橋を渡ると本宮多度神社と別宮一目連神社です。

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一目連神社は天目一箇命を祀っており、特徴は社殿に扉を設けていないこと。

天目一箇神は時に応じて龍神となり雨を降らせるとのことで、その威徳の発現のためとのこと。

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宝刀蛍丸伝説の地をめぐってみました(宮崎編)

宮崎県には阿蘇家の蛍丸とは別と思われる「蛍丸」という刀についての伝説が残っています。

 

 

宮崎の蛍丸伝説

 

天正19年(1591)高千穂を治めていた三田井氏が攻撃を受け、落城したときの話です。

五ヶ瀬の内の口の甲斐繁左衛門という人物の家に一人の武士がたどり着き「助けてほしい」と頼みました。屋根裏にある桶のなかに匿い、やって来た追手には嘘を教えました。武士は再び追っ手を避け逃げましたが、隠れていたところ腰に差していた「蛍丸」という刀が光り出したため見つかってしまい、殺されてしまいました。

 

内の口の民家

 

逃げて来た武士をかくまった桶と屋根裏にのぼる際に使用した梯子があります。

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恵良八幡神社

 

追っ手に見つかり殺されてしまった武士を祀っています。

境内にいくつか解説が説明がありました

天正十九年(一五九一)九月二十七日延岡城高橋元種は高千穂領主三田井越前守親武の居城向山仲山城と三田井花見城大野原亀山城の三城を同時に急襲して是を攻め落し親武の首をあげた

三田井城を守っていた親武の重臣は落城後敵の包囲陣を突破して三ヶ所村まで遁れたものの敵の追撃が厳しく二十八日は内の口に隠われ(かくまわれ)二十九日漸くこの恵良に逃げて来たが帯刀の蛍丸という名刀が暗いところでも光って発見され此処で割腹して果てたという

この村の人達はその死を憐み懇ろに葬って年々その冥福を祈ってきた。その後故人も村人の功徳に感じたものか何時のころからかその霊が村の誰かに乗り移り色々な奇跡を見る様になった。村人はその霊験に驚き改めてその墓所に社を建立して恵良八幡と称して崇めるようになったと伝わって居る。

平成三年九月

  高千穂史談会長 西川功

 

恵良八幡の由緒は右の通り(注:おそらく前述の文章)でありますが幾星霜を経て社殿の老朽化が著しくなったので祭祀四百年祭を記念して社殿の改築を行う事に致しました。併し乍ら僅かな氏子だけでは容易ならぬ大事業でありますので篤信の方は元より広く善意の有志の方々の功徳を仰ぐ事にした次第でございます。

何卒応分のご支援を賜りますようお願いする次第でございます。

尚八幡様のお取次ぎとして奈良津の川口家からのサマエのち明治時代から長原の迫サマエさん現在は尾原の篠村ツイさんが奉仕されて多くの方々を救済されて居ることは御承知の通りでございます    合掌

平成三年十月吉日

  恵良八幡宮改築協賛会長 甲斐栄

  同社 総代代表篠村留市

 

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高千穂峡

 

高千穂峡にはここまで落ち延びてきた三田井家の家臣らが槍を使って川を飛び越えようとし、槍の柄を手前の岸について飛んだ者だけが渡ることができ、向こう岸についた者は転落したことから、この名がついたと伝えられています。

蛍丸と同じく、戦闘以外の場面で武器が人の生死を分けるおはなしです。

 

 

 

宝刀蛍丸伝説の地をめぐってみました(熊本編)

 

2016/9/10~11、ECO九州ツーリスト様の「蛍丸巡りツアー」に参加しました。

阿蘇家とその宝刀・蛍丸について。

 

 

阿蘇神社

 阿蘇山の北麓に鎮座する阿蘇神社。

地震による倒壊で一部入れない箇所もありますが参拝は可能、門前町のお店も営業しています。参拝の方が大勢いらっしゃいました。

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阿蘇家のお宅は現在も阿蘇神社のそばにあるそうです。

蛍丸は阿蘇神社に奉納されていた時期はなく、阿蘇家の宝としての扱いであったとのこと。

宝刀蛍丸の写真も阿蘇家を訪れた学生が資料写真として撮影したものの一枚だそうです。

 

入佐恵良城址

阿蘇氏第10代当主阿蘇惟澄は建武3(1336)年の多々良浜で奮戦したものの、太刀は刃こぼれを生じてしまいました。するとその夜の夢の中で、たくさんの蛍が飛来し太刀の上に集まると消えてしまいました。太刀を調べたところ、欠けていた刃が元通りになっていたためその太刀は「蛍丸」と名付けられました。

阿蘇惟澄は拠点を構えていたこの場所で蛍の夢を見たといわれています。

火山灰地質の阿蘇から、農耕に適したこの山都のほうへ徐々に開拓の手を広げていたとのこと。

傍目にはこんもりした丘のようにしか見えません。近々石碑が作られるそうです。

城があった痕跡としては堀切のようなものがわずかに残っているそうです。また、城があったことから恵良観音という観音像が祀られています。

周囲は畑なので野生動物除けに電気柵が張り巡らされています。

ちなみに蛍の名所だそうですよ。

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通潤酒造

日本酒「蛍丸」を造っている通潤酒造さん。

「蛍丸」の幟がたっています。

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最近はイベントにも精力的に参加されており、ブースはいつも大人気ですよね。

販売コーナーはこんなことに。

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土地が日本酒つくりに適した気候で、お米と水も地元のものを使用しているそう。

240年の歴史を持ち、備前屋という屋号であったころは、西南戦争田原坂の戦いで敗北した西郷隆盛が宿泊して軍議を開いたこともあります。

壁に山頭火の絵があって驚きました。

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9月下旬から地震で被害を受けた蔵の解体修理が始まるとのことです。

 

 通潤橋道の駅

通潤橋道の駅で開催中の「中世阿蘇宮司家と宝刀蛍丸企画展」

道の駅のお客さんが大入りなのか、去年より若干スペースが縮小されていました。そして音声ガイドはオーディオで聞く形式に変化。

 

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迫力ある放水で有名な通潤橋ですが、現在は放水されていません。

ブルーシートがかかっていたのでもしかして地震で壊れた個所があるのかと心配したのですが、山都町の観光サイトに説明が載っていました。

 山都町観光協会 [山都町観光協会]

4月16日に行いました目視による現地確認の結果、通潤橋本体を構成する石材の滑落および欠損は認められていません。外観は健在であり、建設当時の構築技術の高さを証明するものです。一方で、今回の地震により、農業用水を送水する石管の接合部より漏水が確認されており、詳細な状況の把握には専門的な調査が必要となります。また、雨水の浸透を最低限に留めるためにブルーシートを橋上に被せ、併せて安全上の観点から橋上および周辺区域の通行止めを行っておりますので、皆様のご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

 江戸時代の嘉永7年(1854年)に架けられた橋がほとんど大きな損壊もないなんてすごいですね。

 

八朔祭り

毎年9月第一土曜・日曜に開催される八朔祭りが台風12号の影響で一部延期になっていたとのことで、ちょうど花火を見ることができました。

たくさんの方が見に来ていました。

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 山都町目丸

 

天正13(1585)年、島津家に攻められた幼い阿蘇氏22代当主惟光とその弟・惟善兄弟が身を寄せた土地です。

身を隠した岩穴も伝わっています。写真に写っている杉の木の下のほうだとか。

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のち阿蘇惟光は、文禄元(1593)年の梅北一揆に関わっていたと讒言され、秀吉の命によって花岡山にて斬首されます。享年は12歳でした。

先日花岡山で斬首された場所を見てきたので、なんとも切ない気持ちです。

熊本の歴史を見守ってきた花岡山を散策してみました - 書を持ったまま町に出よう

 

潜伏先にこの地が選ばれたのは阿蘇惟豊(惟光・惟善の父)の正室の侍女であった小宰相の局がこの目丸の出身であったことが縁だと言われています。小宰相の局の生誕地であることを記した

小宰相の局は九州征伐を終え帰路についた豊臣秀吉を小倉まで追いかけ、阿蘇家の再興を嘆願した人物で、その結果阿蘇家は所領300町歩を安堵されたとのこと。

 

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 早楠神社

 阿蘇惟澄の長男・阿蘇氏11代当主阿蘇惟村を祀っている、通称「オタッチョさん」。

「オタッチョ」とは「御舘中」や「御塔中」が訛ったものといわれます。

神殿したに室町中期の宝篋印塔があるという珍しい形式です。

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ここには一時期蛍丸が納められたと伝わります。

惟澄から家督を譲られたのは長男・惟村ですが蛍丸は次男・惟武に譲られました。

惟武は蜷打の戦いで戦死、家臣らの手によって首と蛍丸は持ち帰られ、蛍丸は早楠神社に納めれらたとのこと。

 

手入れが非常に行き届いており、いまでも大切に管理されていることが伝わってくる神社でした。

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行橋市で「後藤又兵衛の出奔と細川忠興」を見て又兵衛めぐりをしてみました

 

大河ドラマ真田丸」にも登場予定の後藤又兵衛基次ですが、黒田家出奔後に福岡県行橋市に滞在していた期間があります。 

行橋市歴史資料館で開催中の「後藤又兵衛の出奔と細川忠興」展を見てきました。

事前申し込み要の無料ツアーに参加したのですが、詳細な資料をいただきしかもミニバスでの移動で大変充実した内容でした!

参加人数が増えてしまうとスタッフの方の手が行き届かないため大々的に広報はしていないそうです。次回の12月は大河で又兵衛盛り上がってる頃だとおもうんだけど大丈夫なのかな…。

 

 

 守田蓑洲旧居

守田方は「もりたさしゅう」。守田家第27 代で江戸時代末期に文久新地干拓事業に尽力し、平島手永大庄屋、そして明治時代には福岡県議会議員など要職についた人物です。

守田家は、守護大名大内氏の重臣杉氏の家臣でしたが、江戸時代の初め、今井の地から沓尾へと移り居を構え、代々庄屋や大庄屋を務めた家。

守田家に伝わる『守田家系』の中には西福寺に後藤又兵衛が滞在していたことや出発に際して守田家18代の義房に大身槍と娘・久子を預けたことが記されています。(のちに久子は19 代守田房吉の妻となります。)

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 現在も又兵衛所持と伝えられる無銘の槍は伝わっています。

槍の穂先の長さ一尺五寸四分、赤漆を塗った稲妻形の樋をもつ平三角の無銘の大身槍。厚みはあまり無さそう。実戦で用いられたものではなく嫁入り用の物ではないかとのこと。鑑定の結果、美濃国兼常の作といわれています。

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沓尾石切丁場

守田蓑洲旧居の後ろの山です。

元和6(1620)年の大阪城普請で細川忠興はここから巨石を運んでいます。花崗岩だそうです。

 

香圓寺 

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又兵衛が娘の久子を守田家に託して出立したのち、久子は19 代守田房吉の妻となりました。

房吉は仏門に入り守田香圓と名乗りました。沓尾の香圓寺はこれに由来すると伝えられ、久子と香圓夫妻の墓があります。

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境内には大勢の死者がでた享保の飢饉の供養塔もありました。

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守田蓑洲旧居、沓尾石切丁場、香圓寺のある沓尾のあたりは港として栄えていたとのこと。

守田蓑洲旧居には複数の井戸が残っているのですが、英彦山のほうから水源がつながっていて海の近くなのに真水が飲めるそうです。

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西福寺

西福寺は『今井津昔語』では細川忠興の御茶屋であると記されています。

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『西福寺縁起』には「慶長年間後藤又兵衛基次来寺、暫く潜滞す、当時より大阪城入城のため出帆の時、大石より船に乗り移る。その大石現存す又潜滞中、基次の用いし膳は什宝」 とあります。

門前にあった又兵衛ゆかりの大石の上には昭和61年に建てられた後藤又兵衛基次霊塔があります。

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また、潜滞中に基次が使用したとされる御膳は寺宝として現在残されており、「後藤又兵衛の出奔と細川忠興」でも展示されています。

四隅を切った膳で内面を赤、外面を黒漆で塗った蝶足膳で、膳を入れる木箱の表には「後藤基次遺物 塗膳壱前 無漏山什器」、その裏には「時 慶応三戴 丁卯仲冬 再製函」と墨で書かれています。 

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浄喜寺 

このあたりの地名が守田と呼ばれており、前述の守田家はもとはこの付近に住んでいて苗字を「守田」にしたとのこと。

明応4年(1495)、村上良成が本願寺蓮如上人の直弟子となり開山。(村上水軍の流れをくむ?村上天皇の第六皇子昌平親王の孫?) 

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細川忠興からの信頼が厚かった第三世村上良慶。「後藤又兵衛の出奔と細川忠興」で肖像画が展示されています。

石山合戦などで武勇が語り継がれた人物で、教如上人を守ったことで佩刀であった三条宗近の名刀を賜ったといわれています。

肖像画に描かれている太刀でしょうか?

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この塀瓦に用いられている家紋は小倉藩主となる小笠原氏のもの。婚姻関係もあったほどの関係で、寄進もされていたとのこと。

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 境内には旧霊仙寺(現・英彦山神宮)の大講堂にあったとされる「梵鐘」(県の重要文化財)があります。

これは豊前今居金屋で鋳造されたもので、銘文によると作者は今居(現在の今井)の鋳物氏大工左衛門尉藤原安氏であり、「作料助成」とあることから梵鐘の製作費用は安氏が英彦山に寄進したものと推測されます。

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村上水軍井戸

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又兵衛に関して、細川氏の家史である『綿考輯録』に「忠興君を頼奉り小倉より上方江罷越候、忠興君御懇にて村上八郎左衛門を大坂迄御添被遣候」と記されています。

この村上八郎左衛門と言う人物は村上水軍の流れをくむ人物だそうです。

 

 

行橋市歴史資料館「後藤又兵衛の出奔と細川忠興

 

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展示スペース自体は決して広いわけではないのですが、行橋の貴重な資料と詳細な解説が大変見ごたえがありました。

個人的には周辺の地理に疎いため解説に大きな地図があったのが非常にありがたかったです。

細川忠興のローマ字印が使われた書状もあります。

入場無料、写真撮影OKという大判振る舞いです。平成28年6月17日(金)~12月18日(日)。

 

 

地震後初めて阿蘇神社へお参りに行ってきました(2016/9/10)


 先日は熊本城など市内を散策したので、今回は阿蘇神社へお参りに行ってきました。

 

9/10付けの立ち入り可能範囲が記載された境内図です。

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楼門

まず目に入るのは倒壊した楼門です。

 

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近づいてみると、扁額の「阿蘇神社」の「阿」の字が少しだけ見えます。
初めて阿蘇神社に来た方でもこの大きさから元の楼門がどれだけ巨大なものだったか想像できるのではないでしょうか。

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境内

楼門に向かって左手から境内に少しだけ入ることができるようになっています。

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以前は境内に入れなかったと聞きましたので、少しずつ整備が進んいるですね。
仮拝殿ではご祈祷なども行われているようでした。

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拝殿に向かって右手側にある願掛け石、謡曲高砂ゆかりの縁結びの松はいまだに立ち入り禁止エリアとなっており、近づくことはできません。
外から松のような木が見えたのですが、これが縁結びの松かな…?

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駐車場

 

そばの駐車場はもともと広くないこともあり、かなり混んでいます。 休日だと第二駐車場に誘導されることも多いようです。
御朱印やお守りの授与は第一駐車場内の仮設設備でおこなわれています。


門前町

 

 

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門前町のお店はほとんど営業再開しているよう賑わっていました。
名物あか牛を使用した料理や各種スイーツが食欲をそそります。食べ歩きに適した馬コロッケや小さいシュークリームもあります。
「花びし」さんでの肥後赤牛カツ重です。わさび醤油でいただきます。

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ちなみに神社に対して、横に参道が伸びているのはとても珍しいです。
また、参道に水基(水飲み場)が点在しているのも特徴です。
きれいに手入れされていて、風情もあって素敵です。

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おまけ 旧女学校跡

仲町に看板が立っていたので気になって足をのばしてみました。
阿蘇神社から徒歩5分ほどの場所にあります。
校舎だった建物を改築してアンティーク雑貨や簪が販売されています。カフェもありました。
阿蘇神社や門前町とはまた違ったレトロな雰囲気が味わえます。

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光雲神社にお参りしたり、加美家の黒田武士煎餅をいただいたり

黒田如水・長政を祀る光雲神社にお参りしたので、帰り道は加美家でお菓子を購入しました。

 

アクセス

 

地下鉄大濠公園駅から徒歩で15分ほど。福岡城の本丸からだと30分ほどかかります。

鳥居をくぐった後には坂道と50段ちょっとの石段が待っています。春は桜がきれいですよ。

 

歴史

 

光雲神社は福岡藩藩祖黒田如水(龍光院殿)と初代藩主黒田長政(興雲院殿)を祀っており、法号を一文字ずつとって光雲神社。「光雲」で「てるも」と読みます。

西公園はかつて荒戸山(荒津山)と呼ばれており、防人がいたと言われています。現在は埋め立てられて海岸は遥か遠くですが、かつてここからは入り江が見渡せたようです。

 

光雲神社の前身は福岡城本丸に6代継高が建立した長政を祀った聖照宮と黒田如水を祀った水鏡宮です。この2社が明治に入ってから移転し、最終的に明治40年(1907年)、現在のこの土地に遷りました。

社殿は昭和20年6月19日の福岡大空襲で全焼しましたが、昭和41年に再建されています。

 

この土地には光雲神社以前に荒戸山東照宮がありましたが、明治維新後しだいに廃れてしまい、東照宮跡に光雲神社が建立されました。

なお東照宮は2代藩主忠之のときに建立され、その前には金龍寺がありました。金龍寺は鳥飼に移転し現在も貝原益軒の像で知られます。 

 

境内

 

入ってすぐに黒田長政の水牛の兜像があります。

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その向こうには黒田二十四騎の一人・母里太兵衛友信の銅像が見えます。右手には日本号を持って堂々と立っています。博多駅母里太兵衛像とはまた違うポーズです。

銅像下部には民謡「黒田節」の歌詞が刻まれています。「のめのめ酒をのみとりて~」バージョンです。 

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本殿 

 

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光雲神社は狛犬が特徴的です。普通とは首が逆を向いています。 

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福岡城舞鶴城と呼ばれていたことにちなみ、天井には鶴の絵が描かれており、お賽銭を入れると鶴の鳴き声が流れる仕組みになっています。

時々仕組みを知らない方が警報が鳴ったと勘違いして慌てているのを見かけます。 

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堅盤神社

 

読み方は「かきわじんじゃ」

黒田重隆黒田職隆黒田忠之、醍醐冬香夫人厚姫が祀られている。額は黒田家15代当主、黒田長久の揮毫。

荒津神社

 

 

もとは神武天皇大物主神、金毘羅神を祀っていたと伝わります。

この鳥居は前述の荒戸山東照宮がこの地にあった頃に作られたものと考えられるとのこと。

  

加美家製菓の黒田武士煎餅

 

光雲神社から徒歩15分ほどの唐人町商店街にある和菓子さんです。

光雲神社にお参りしたならここで黒田家にちなんだお菓子を頂くのがベストな流れだと思います。

黒田武士本舗 加美家製菓は、煎餅.饅頭.和菓子の老舗!

かつて黒田藩御用菓子司であった歴史を持ち、黒田武士煎餅という母里太兵衛の日本号呑み取りにちなんだ盃型煎餅などを販売しています。

袋のデザインも日本号と盃です。初見でなんで三重の塔…?とか思ったのは秘密です。

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黒田武士煎餅、結構大きめの三段重ねもありますが、ミニサイズ8枚入りなどもあります。写真は黒田武士饅頭とミニサイズ黒田武士煎餅です。ミニサイズでも盃の形をしています!

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ほかにも如水どら焼きなど様々なお菓子があるのですが、黒田長政の名前を冠したお菓子はあまり見かけないので購入。

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店内で和菓子やお抹茶を頂くこともできます。夏はかき氷もあるそうです。

 

鵺謡蹟めぐり①東三条大将軍神社

アクセス 

地下鉄東西線東山駅京阪三条駅の中間地点。どちらからも徒歩5分程度。

通りからは見えない位置なのですが、近づくと大きな看板があります。

村山造酢というお酢屋さんの建物が目印。近づくとお酢のかおりがします。

 

歴史 

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794年(延暦13)平安京造営の際、桓武天皇大内裏鎮護のために都の四方に配置した大将軍神社の東南方角の一つ。

時代の流れと共に移転したり他の神社に組み込まれたりしていますが、いずれも現在に至るまで神社として存在しています。

南:藤森神社境内社・大将軍社

西:大将軍八神社

北:西賀茂大将軍神社/今宮神社末社・大将軍社

東:岡崎神社/東三条大将軍神

 

平安時代中期にはこの辺りに関白太政大臣となった藤原兼家の邸宅・東三条殿がありました。東三条殿は応仁の乱で廃壊しましたが、現在では東三条社として境内にあります。

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鵺の森

謡曲「鵺」でこの地は次のように登場します。

「御悩は丑の刻ばかりにてありけるが。東三条の森の方より。黒雲一村立ち来つて。御殿の上におほへば必ずおびえ給ひけり。」

現在は境内は整備されており、禍々しい雰囲気は感じられません。

樹齢800年と伝わる銀杏の大樹があります。この木は鵺を知っているのかと思うと時代の流れを感じます。 

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謡曲では鵺の姿は次のように表現されています。

「頭は猿尾は蛇。足手は虎の如くにて。鳴く声鵺に似たりけり。恐ろしなんども。愚なる。形なりけり。」

 

姿については本によって細部が異なります。有名どころでは次の二つでしょうか。

平家物語』巻四、鵼の事:頭→猿、躰→狸、尾→蛇、手足→虎

源平盛衰記』巻十六、三位入道芸等の事:頭→猿、胴→虎、尾→狐、足→狸

 

 

坂本龍馬が新婚旅行で訪れた高千穂峯に登ってカステラを食べてきました

坂本龍馬おりょうが新婚旅行で訪れ、姉の乙女へ送った絵入りの手紙が有名な高千穂峯。

ヤマキリシマの時期を外せばそんなに混んでないのでは?近くまで行ったときに登ってる人が多かったから初心者でも行けそう?とか考えて、登山初心者がチャレンジしてみました。

振り返りも兼ねて往復の状況と、装備について、感想です。

 

 

 

坂本龍馬の手紙(サービスパークセンターの画像と翻刻

サービスパークセンターに手紙の該当部分を抜き出した画像がありました。

(全体は京都国立博物館のデータベースにあります。)

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是より又山深く入りて、きりしまの温泉に行く、

此所より又山上ニのほりあまのさかほを見んとて、妻と両人つれニてはるはるのぼりしニ、立花氏の西遊記ほとニハなけれとも、どふも道ひどく女の足ニハむつかしかり けれどもとふとふ馬のせまでよぢのぼり、此所にひとやすみして、又はるばるとのぼり ついにいただきにのぼり、かの天のさかほこを見たり。其形ハ

(図)

是ハたしかに天狗の面ナリ 両方共に其顔がつくりつけてある からかね也

やれやれとこしをたたいてはるばるのほりしニ、かよふなるおもいもよらぬ、げにおかしきかおつきにて天狗の面があり、大に二人りが笑たり、

□此サカホコハ少シうこかして見たれバ、よくうごくものなり又

あまりにも両方へはなが高く候まま、両人が両方よりはなおさへてエイヤと引ぬき候時ハわづか四五尺のものニて候間、又々本の通りおさめたり、からかねにてこしらへたものなり

此所に来れハ実ニ高山なれハ、目のとどくたけハ見へ渡り、

おもしろかりけれとも何分四月でハまたさむく、風ハ吹ものから、

そろそろとくたりしなり、なる程きり島つつしが一面にはへて、実

つくり立し如くきれいなり、其山の大形ハ

(図)

○ 此穴ハ火山のあとなり、渡り三丁ばかりアリ、すり鉢の如く下お見るニおそろしきよふなり

イ~ロ 此間ハ山坂焼石ばかり、男子でものぼりかねるほど、きじなることたとへな志、やけ土さらさら、すこしなきそふになる。五丁ものほれバはきものがきれる

ロ~ハ 此間彼ノ馬のせこへなり、なるほど左右目のをよハぬほど下がかすんておる、あまりあぶなく手をひきゆく

ハ~ニ 此間ハ大きニ心やすく、すべりてもおちる所なし

 

 

往路 

目安だと1時間30分になっていますが、だいたい2時間40分かけて登っています。

頻繁に休憩を取ったことと、霧や雨に遭うたびに止まって様子を見たのも原因かと思います。

①千穂河原サービスパークセンター、ビジターセンター

高千穂峯の標高は1,573 mですが、ここの駐車場までに車でだいぶ登ります。

駐車場には噴火したときのためのシェルターがあり、ここは火山なんだなぁと思いました。

サービスパークセンターには立体地図と映像で登山道を紹介しているテレビもあって参考になります。

また、望遠鏡が設置してあり100円で使用できます。

ビジターセンターでは100円でピッケルを借りれますので、持っていない場合は絶対借りた方がいいです。

 

 

霧島神宮古宮址

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文暦元年(1234年)まで霧島神宮のあった場所です。現在も祭祀は行われているとのこと。

古宮址の鳥居前で右折すると研究道があり、そこから登っていきます。

はじめは石畳、徐々に砂礫まじりの道に変わってきます。30分ほどかけて歩きました。

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③火山灰等が堆積した斜面

まず足を踏み出しても砂と石に埋まって進めないゾーン 

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そこを抜けると岩がごろごろしたゾーンに突入。岩をよじ登るような形になるところもあります。

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乙女への手紙には「此間ハ山坂焼石ばかり、男子でものぼりかねるほど、きじなることたとへな志、やけ土さらさら、すこしなきそふになる。五丁ものほれバはきものがきれる」とあります。

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21世紀では装備さえちゃんとしていれば泣きそうになることもありません。

1時間くらいかかって登り切りました。

 

④御鉢

斜面を登りきると硫黄の匂いがしてきます。俄然テンションがあがりました。見回してみましたが、噴煙は上がっていないようです。

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「此穴ハ火山のあとなり、渡り三丁ばかりアリ、すり鉢の如く下お見るニおそろしきよふなり」

大きい岩があったので腰かけて休憩。

「とふとふ馬のせまでよぢのぼり、此所にひとやすみして」はここだろうということで、この場所で食事をとることに。小松帯刀がお弁当にとカステラを持たせたとのことでしたので、カステラを持参しました。

福砂屋のキューブは折り畳み式のフォークがついているのでこういう場面に最適です。 

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そうこうしている内に霧が出てきて、高千穂峯どころかこれから進む馬の背も見えなくなってしまいました。

 

⑤馬の背

「ロ~ハ 此間彼ノ馬のせごへなり なるほど左右 目のよバぬ ほど下がかす んでおる あまりあぶなく手おひき行く」

高所恐怖症にはつらい…。道幅が狭いのに加え岩が転がっているので、すれ違いが恐怖です。

左右がよく見えないまま恐る恐る歩いたので15分ほどかかりました。

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背門丘(鞍部)

馬の背を下っていくと霧島神宮元宮があります。

6世紀に僧・慶胤によって高千穂峰と御鉢(かつては火常峰と呼ばれていたそうです)の間のこの場所に社殿が立てられたそうです。しかし火山の麓なので度々炎上し、天暦年間に現在の古宮址に遷されました。 

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高千穂峰山頂へ続く登山道へ向かいます。斜面が多く滑りやすくなっています。下りの人優先で周囲を見て登るように。

高山植物と岩を間近で見れるので、個人的には楽しかったです。

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「此所ニきり島ツツジヲビタダシクアル」はこのあたりです。龍馬が登ったのは新暦5月13日なので見ごろを迎えていたのでしょう。

 

⑥山頂

霧の中をのんびり進んでいたら、気づいたら頂上についていました。

逆鉾にはハエが群がっています。

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しばらく滞在しましたが、霧が晴れないままで景色は見えず。

「けにおかしきかをつきにて天狗の面があり、大ニ二人りが笑たり」の天狗の面らしきものは写真を拡大するとそれらしきものが確認できました。

近寄って見る事はもちろん、抜くことはできないため、記念撮影はビジターセンターで。紙でつくられているのですが、なかなかの再現度です。

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復路

 

目安では1時間ですが、1時間半くらいかかりました。( 下り道が苦手なのもあると思います。)

靴の中に砂が入りまくったのでスパッツがあればよかったです。

 

⑦背門丘(鞍部)

階段は網で砂を固定しているのですが、滑りやすいです。

脇の砂だけの場所のほうが踵でしっかり踏ん張れるので、個人的にはおりやすかったです。

 

⑧馬の背

途中で強い風と雨に見舞われ、岩陰でウィンドブレーカーを装備しました。

⑨御鉢

雨が止むまでしばし休憩し、斜面を下ることにしました。

⑩火山灰等が堆積した斜面

ほとんど這いつくばっていました。

登りは登山慣れしてそうな人が通った後を着いていけば楽なルートが分かったのですが、身長の問題で下りはそうはいきませんでした。

足の長さが足りなくて安定した着地ができない、滑ったとき踏みとどまれない…。ものすごく時間がかかりました。

⑪研究道

駐車場に繋がっている道のほうが緩やかと聞いていたのでそちらを通ってみることに。

石畳のゆるい坂で、雨が降ったためか湿っていて非常に滑りやすかったです。この道は上りで使うほうが安全そう。なんとか無事に下り終え、駐車場までたどり着きました。

 

装備

 

低山トレッキング用の靴+登山用靴下

→やっぱり足元の装備は重要。だいぶ前にアウトドア専門店でスタッフさんにアドバイスをもらって購入したもの。個人的にはフィット感と軽さ重視。

半袖TシャツON長袖Tシャツ、ショートパンツ+レギンス

→ガチ私服ですが特に問題はなかったように感じます。でも下山で靴に砂と石が入りまくったので、スパッツ装備か長ズボンがよさそう。

ウィンドブレーカー

→家にあったものを適当に持ってきました。雨具代わりです。山頂ってすぐ霧がでたり雨が降ったりするんですね…。

撥水素材の帽子

→雨具代わり。雨粒が帽子に落ちる音でトトロごっこができます。

軍手(滑り止めつき)

→ホームセンターで3組1セットとかで売ってる普通の軍手。

大きめのナップザック

→背負うとお尻が隠れるくらいのサイズ、背中から浮かず軽いものを持ってきました。お尻に当たるので歩くとき気が散って邪魔で、大きければいいわけじゃないんだと実感。

500ミリペットボトル×2(ミネラルウォーターとアクエリアス

→雨や霧の影響か途中からあまり汗をかかなくなったのでこれで足りました。

ピッケル(ビジターセンターで借りたもの)

→これがあるだけでかなり楽になるような気がします。わたしはバランス感覚が悪いので岩をつかむことが多く、1本片手装備でよかったです。

 

もしまた登山するピッケルとスパッツは購入しようかなと思います。

 

感想

 

装備は準備していったのですが初心者には無理かな~と思い、途中まで行って引き返そうとい気持ちで登っていたらなんとか高千穂峯まで到達できました。

「あーつらい休憩しよ…」→5分後「まだ行ける気がするからもう少し登ろう」の繰り返しでした。

無理をせず自分のペースで進むことが怪我をしないことに繋がりますし、やっぱり大事なんだなと感じました。 

どう見ても初心者の女グループだったからか、すれ違う方が「ここを過ぎれば楽だから頑張って」「もう少し行くと景色がいいですよ」と優しく声をかけてくれたので、かなり気が楽になりました。

 

どの地点で会う方も、みなさん「ここを過ぎれば楽だから」って言うのがちょっと面白かったです。

 

 

 

さっそく「西米良で名刀に出会う夏2016」を見に行って西米良村を堪能してきました

とにかく豪華な内容でした。展示も特典も。

三連休中日、福岡から車で高速利用です。ご参考になれば。

 

西米良へようこそ - 「西米良で名刀に出会う夏2016」を開催します!

 

 

アクセス 

福岡から車で向かいました。益城のあたりは工事中の箇所もありましたが、連休中日だったからかわりとスムーズに通過。

人吉インターで降り、西米良村までは1時間ほど。しばらく片側一車線の道が続きます(コンビニとかドラッグストアもあります)が、西米良村まで20キロ切ったあたりから山道っぽくなってきます。最初のトンネルがちょっと長めでトンネル内で霧が発生していたのは心が折れそうになりました。でも道路の幅も広めでしたし、後続車がいなかったので運転しづらさは感じませんでした。

村内は広く、特典の食事施設も車で30分ほどかかる場所に位置しているところもあるので注意。

公共機関を利用する場合、バスもあるのですが本数がかなり少ないです。アクセスは村の公式HPに詳細があります。

http://www.nishimera.jp/modules/contents_kanko/index.php/18/index.html

 

西米良村について

 

臨時駐車場ができていて、誘導のスタッフさんがいます。

10時30分ごろ着いたわたしの車で一番近い駐車場は満車になりました。人吉からの道では全然車を見なかったので、宮崎県内の来場者が多いようです。ちなみに700メートル先にもうひとつ駐車場があるとのことで、そこからはシャトルバスが出ているそうです。(詳細は聞いていないので休日のみかも…)

あちこちに刀剣展の看板が立てられており、スタッフの方も多いので安心です。道が分からず色々お尋ねしてしまったのですが、とても丁寧に教えて頂けました。

 

入場料3000円には下記の特典がついています。

  1. 西米良村歴史民俗資料館入場料(刀剣展)
  2. 村内での食事(5か所から選べます)
  3. 西米良温泉ゆた~と入浴料
  4. 西米良温泉ゆた~と1ドリンク
  5. 村内観光施設で使用できるお買いもの割引券

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「西米良で名刀に出会う夏2016」@西米良村歴史民俗資料館

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展示スペースは3か所、いずれもあまり広くないです。階段を下りたとこも展示スペースなので忘れないように。

刀剣はガラスケースに三段で展示されており、一番上の列の刀剣は台に邪魔されてよく見えなかったものもいくつか…。

下の階で鞘のみ展示されているガラスケースは上部がない形式。鞘は刀身と別に展示されてるものもあるため、展示番号のチェックを怠らないように…!

展示内容がとにかく豪華なので、とりあえずパンフを見てください。

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宮崎県だからか堀川國広が多いです。西米良村から綾町までは車で1時間40分ほどのようです。

 菊池資料館

西米良村歴史民俗資料館への階段そばには菊池資料館があります。

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菊池則忠は版籍奉還に際して所有山林地をすべて領民に分配したとのことで、非常に慕われており、その孫にあたる菊池武夫の別邸として80年ほど前に村民から送られたとのこと。

菊池氏ゆかりのものと思われる甲冑や戦前?のラジオもあります。

入場料無料。記帳していってね!(名前と県外/県内どちらかだけでOKみたいです)

 

 

おがわ作小屋村

 

http://ogawa-sakugoya.com/

入場料特典の食事が食べられる施設の一つです。

歴史民俗資料館から車で30分ちょっと。道は5か所ほど工事中で片側交互通行になっているので時間に余裕がない場合はおすすめできないかも…。

店内はそんなに広くないのでランチタイムは混み合います。12時過ぎに到着したら前に4組ほど待っていました。食事する予定ならあらかじめ予約をしておいた方がいいです。

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田舎風の建物がとても懐かしいかんじ。特典のお買いもの割引券が使用できるので、しいたけと柚子羊羹と柚子味噌を購入しました。

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でも順番待ちになっても安心!

太鼓橋を渡ると歴史民俗資料館があり、農耕具や生活用品が展示されています。

敷地内の像は最期の領主・菊池則忠。

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補足

 西米良温泉ゆた~と

→特典としてここの入浴券もついていたのですが、温泉に入るとリラックスしきって動けなくなってしまうので今回は断念しました。

お昼過ぎに遠目に見たところ、駐車場がちょっと混みあってるかな?といった感じでした。

 

狭上稲荷神社

→さえいなりじんじゃ。鬱蒼と茂る木々の中の朽ちそうな鳥居の写真がすごくそそられ、しかも古墳だったとのことで行きたかったのですが、スタッフさんに聞いたところかなり道が悪いとのこと。村の入口あたりに大きな看板が立っていますが、10キロの距離を車で30分かかるそうです…。

 

児原稲荷神社

→資料館からおがわ作小屋村への道の途中に看板があります。

ここも元は古墳だったようですが、痕跡は見つけられず。高山彦九郎が立ち寄ったことがあるそうで碑が立っていました。境内には甲斐右膳、大蔵父子のお墓もあります。

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感想

 

インターネットで豪華な刀剣展が開催されると知って、正直なところ西米良ってなんて読むの?どこ?から始まりました。。

村のサイトを見ているとワーホリやいろんな取組をしているようです。釣り愛好家らしき方をよく見かけたのですが、この特典付きのチケットで温泉や食べ物といった村の良さをさらに知ってもらおうという試みなのでしょうか。資料館ではお子さん連れのご家族も見かけました。

わたしのような県外の人間に対しても大成功です。スタッフさんも丁寧な方ばかりで、楽しい旅ができました。本当にありがとうございました。

 

 

7/22(金)からは川床も始まるそうですので興味のある方はぜひ。

西米良へようこそ - 【7/22へ延期】にしめら川床はじめます

 

妖精さんのカリコボーズがデザインされたマンホールもキュートなので見てください。

西米良へようこそ - カリコボーズってこんなんよ

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