書を持ったまま町に出よう

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地震後の水前寺成趣園で景色とお菓子を楽しんできました(2016/6/19)

素敵な風景を見ながら歴史ある部屋でお菓子を食べれるって最高に贅沢だと思います。 

 

 

 
アクセス

 

 

市電水前寺公園から徒歩5分。

公園までの道の両脇には土産物屋が並んでおり、熊本名物・いきなり団子なども売っています。

 

歴史

 

細川藩初代忠利が「国府の御茶屋」を設け、近侍の豊前羅漢寺の僧・玄宅のために「水前寺」という寺院を建てたことが始まり。

そののち綱利の時代に大規模な作庭がなされ、桃山式の優美な回遊式庭園が完成、陶淵明の詩・帰去来辞より成趣園と命名されました。

震災により池の水量が減ったとニュースになっていましたが、現在はかなり戻っています。 

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この岩の色が変わっている部分が以前の水位でしょうか?

 

古今伝授の間

 

入口から少し歩くと見えてくる萱葺の建物が古今伝授之間です。

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もとは桂宮智仁親王の書院を兼ねた茶室で京都御所の八条宮家(のちの桂宮家)の中に建っていたものです。慶長5年(1600)年、この部屋で細川幽斎桂宮智仁親王に「古今和歌集」の解説の奥儀を伝授したことが「古今伝授之間」と呼ばれる由縁です。

その後、明治に入って細川家に譲られ解体保管の時期を経て、大正元(1912)年に現在の地に昔の型通り移築されました。なお、この場所はもとは細川藩主の茶室・酔月亭が在った場所です。

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現在はお菓子の香梅(陣太鼓で有名な熊本の製菓メーカー)が管理しており、建物内でお茶とお菓子をいただけます。

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江戸時代に幕府への献上品にもなった細川家秘伝の伝統菓子を復元した加勢以多(かせいた)です。 ゆず?の甘酸っぱさが上品でおいしいです。

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出水神社

 

熊本藩歴代藩主を祀る神社として、明治11年に旧藩士らによって創建されました。当時、熊本城下は西南の役で甚大な被害を受けており、人々の心のよりどころとなるようにとの願いが込められているそう。しかし、社殿のほとんどは第二次世界大戦で焼失し、現在の社殿は昭和48年に完成しました。

わたしが参拝したときは本殿が工事中のようで覆いがかかっていました。

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ちなみに水前寺成趣公園は出水神社神苑です。パンフレットを見て初めて知りました。

 

鳥居から境内に入って左側には、神水「長寿の水」が湧き出ています。忠利がこの地に御茶屋を設けた理由はこうした湧水が茶の湯に最適であったからではないかと推測されます。

袈裟紋の水盤は細川忠興のお気に入りで「袈裟」と命名し庭砌に据えて日夜鑑賞したものとのこと。

 

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本殿向かって左の五葉松は数百年の古木とのこと。 

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そばの稲荷神社は文化6年(1809年)、8代斉茲によって京都伏見稲荷大社より勧請され、またその後に斉茲の母が感情した二本木御鎮守の稲荷社を合祀したもの。

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能楽堂

 

歴代藩主が文化面に造詣が深かったことから出水神社創建に際し設けられました。昭和40年火災にあって焼失、約20年後に再建されたものが現在の能楽堂とのこと。

毎年8月第一土曜日に薪御能が催されています。

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壁になっている板戸が外れる仕組みのようなので、観客は舞台前の芝生に座るのかと思います。

ちなみに中を覗くと等身大の人形が能装束を身につけて座っています。知らずに近づいた人はおどろくのではないでしょうか…。 

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 この日は生憎の雨でしたが、これはこれで風情がありました。

池で白いすっぽんを見つけると幸せになれるそうなので、晴れて見通しがきく日に探してみたいです。

 

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小鍛冶謡蹟めぐり⑥ 知恩院三門そばの小鍛冶の井

佛光寺本廟と同様に三条宗近が刀を打つ際に用いた井戸があったとされる場所です。

 

 

アクセス

知恩院三門のそばにあります。

三条宗近の井戸があったとされる佛光寺本廟からは徒歩10分程度。

また、粟田口吉光が弁財天の神助を得て作刀をした伝説と井戸が残る吉水弁財天堂(円山弁天堂)からも徒歩10分程度です。

ちなみに、寺院の門は一般に「山門」と書きますが、知恩院の門は「三門」と書きます。

これは、「空門」「無相門)」「無願門」という、悟りに通ずる三つの解脱の境地を表わす門・三解脱門を意味しているとのこと。

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小鍛冶の井 

『都名所図会』では三条宗近が作刀に用いた井戸の場所は、知恩院三門の傍だったといわれています。

見づらい位置ですので、三門向って右のスロープの途中から覗きこむか、三門前から見下ろすかのどちらかです。

↓スロープの途中から。あんまり上手く撮れなかったです。

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 ↓三門前から見下ろすとこう。

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知恩院は高さがある階段が多く敷地も広くて結構歩くのですが、スロープや車いす貸出サービスがあるとのことで、年配の方にも優しいイメージです。

小鍛冶謡蹟めぐり⑤ 佛光寺本廟

三条宗近が刀を打つ際に用いた井戸があったとされる場所です。

同様の伝説が知恩院にもあるのでまた次の記事で。

 

アクセス

佛光寺本廟は三条宗近ゆかりの場所がたくさんある粟田口鍛冶町にあります。

鍛冶神社から御百稲荷神社があるウエスティン都ホテル京都へ向かって歩くとすぐです。

googleマップで検索するときは「佛光寺本廟」と入力しないと高倉通仏光寺下るの佛光寺が表示されるので注意。

 

三条小鍛冶宗近之古跡 

三条宗近は、粟田口三条坊(現在の東山区粟田神社付近)に住んでいたと伝わります。

粟田神社の東にある佛光寺の境内には宗近が刀を打つ際に使ったという井戸があったと『拾遺都名所図会』に記載があります。

現在は「三条小鍛冶宗近之古跡」の碑が立っています。

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由来 

京都市の解説板が立っていました。

宗近は平安中期の刀匠で姓は橘。信濃守粟田藤四郎と号し、東山粟田口三条坊に住したので三条小鍛冶とも称した。  

名刀子狐丸(注・原文ママ)をはじめ幾多の刀剣を造ったが、現存するものとして三日月宗近などがある。祇園祭長刀鉾の鉾頭の長刀は、宗近が娘の疫病治癒を感謝して鍛造し祇園社に奉納したものといわれ、特に有名である。  

拾遺都名所図会によると、佛光寺本廟境内に刀剣を鋳るときに用いた井水があったといわれる。(都名所図会では知恩院山門の傍とある)  なお、粟田口鍛冶町にある粟田神社境内に鍛冶社があり、また神狐の合槌によって名刀を鍛えたと伝えられる合槌稲荷社が粟田口中ノ町にある。

 

 

小鍛冶謡蹟めぐり④ 御百稲荷神社

三条宗近は蹴上付近にあった御百稲荷に詣でて祈って小狐丸を打ったとも伝えられます。

 

アクセス

ウェスティン都ホテル京都の7階から一度屋外へ出て、「野鳥の森・探鳥路」散策コースに入ります。

そばには他の施設もあるのでコースの入口がわかりづらいのですが、これが目印になるかと。

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御百稲荷神社はコースの途中にあるのでそんなに長い距離を歩くことはありませんが、下の写真のように舗装された道ではないので足元注意。

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ルートはウェスティン都ホテル京都のサイトに記載があります。

野鳥の森・探鳥路 | 京都 ホテル

 

御百稲荷神社

もとは旧東海道筋に鎮座していたものの、戦後連合軍による接収中に現在の地に移されたとのこと。 

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解説板より 

本社は古くから「蹴上の稲荷」として、近隣の人々の信仰が深く、都ホテル内構内の旧東海道筋に鎮座していたが、戦後、連合軍の接収中に当地に移された。

御祭神は御百稲荷大明神と呼ばれ、御百とは御百度または数の多いことを表し、ひたすら拝礼することで商売繁盛、無病息災などのご利益にあずかると伝えられる。

現在、都ホテルで初午祭、お火焚祭などの祭礼を執り行っている。

 

 御百稲荷神社からは見晴らしがいいですよ。

 

小鍛冶謡蹟めぐり③ 相槌稲荷神社(それと吉水園の和菓子・小鍛冶が美味しかったはなし)

 能「小鍛冶」の謡蹟めぐりにかこつけてお菓子を食べてきました。

 

小鍛冶の謡蹟では名前が最もストレートで分かりやすいところです。

近くに観世会館や吉水園(小鍛冶のお菓子を販売。後述)があることも一因でしょうか。

 

 

相槌稲荷神社

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三条小鍛冶宗近が信仰していた稲荷の祠堂と伝えられます。

粟田神社の参道を下りて三条通りに出れば、通りに面している赤い鳥居が目立つのですぐ見つけられます。

民家の間の細い道を通るのですが、この道に面しているのは壁ではなくお宅のガラス戸なので、呼吸すら憚られるレベルで緊張します…。 

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謡曲史保存会の高札をそのまま載せます。

ここは刀匠三条小鍛冶宗近が常に信仰していた稲荷の祠堂といわれ、その邸宅は三条通の南側、粟田口にあったと伝える。

宗近は信濃守藤四郎と号し、粟田口三条坊に住んだので三条小鍛冶の名がある。稲荷明神の神助を得て名剱小狐丸をうった伝説は有名で、謡曲「小鍛冶」もこれをもとにして作られているが、そのとき相槌をつとめて明神を祀ったのがここだともいう。

なお宗近は平安中期の人で、刀剣を鋳るのに、稲荷山の土を使ったと言われる。

  

吉水園の小鍛冶 

冒頭で述べた和菓子屋さんの吉水園では「小鍛冶」というお菓子が作られています。

京都市・和菓子|京菓子司 吉水園 トップページ

その名の通り、三条小鍛冶に由来したお菓子とのこと。鍔の形をしていて中身は柚あんです。

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なお店内には喫茶スペースもあり、わらび餅などが頂けます。

わたしは観世会館の始曲前に着いたときの時間調整でお世話になっています。

 

 

小鍛冶謡蹟めぐり② 粟田神社・鍛冶神社

 能「小鍛冶」の謡蹟めぐりで粟田神社と鍛冶神社にお参りしてきました。  

 

 

北向稲荷神社

ここの御祭神の一柱・雪丸稲荷が三条宗近の相槌を打ち、その刀が小狐丸であるとも言われています。

御祭神は雪丸稲荷ほか三座。御創建年代は不詳。江戸時代の絵図には稲荷社が描かれており、古くから粟田神社境内に鎮座していたと考えられるとのこと。

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神社案内 | 粟田神社

御祭神は雪丸稲荷他三座で、雪丸稲荷は三条小鍛冶宗近(平安末期の名刀匠)が一条院の勅命により剣を打つ際に相槌を打ったお稲荷さんと云われています。宗近は御百稲荷(現在は都ホテル内にあり、昔はここを稲荷山といった)に詣でて祈り、その稲荷の神霊に相槌を打って頂いて剣を打ち上げたそうです。

御百稲荷と雪丸稲荷の関係が気になるところです。御百稲荷は後でお参りします。 

 

また、神社の向きについては多くの言説がありますが、北向の神社は珍しいと言われています(それなりの数はあると思いますが)。

ちなみに粟田神社の参道入り口から道を挟んで向かいに相槌稲荷神社があるのですが、そちらは特に「南向」とはつかないようですね。

 

鍛冶神社

 

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参道横の駐車場の中にあります。

祭神は三条小鍛冶宗近・粟田口藤四郎吉光・天目一筒神。

明治天皇御製「真心をこめて錬ひしたちこそは乱れぬくにのまもりなりけれ」

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粟田神社について

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粟田神社の石段下の道は旧東海道東山道。この辺りは京の七口(京都の七つの出入口)の一つである粟田口と呼ばれる地域です。

参道の階段はちょっと長め、途中に神馬の像があります。

旧社名は感神院新宮、粟田天王宮、明治になり粟田神社と改称され現在に至ります。

粟田神社神幸祭で巡行する剣鉾は祇園祭の山鉾の原形といわれています。また、室町時代には祇園会が行われない際は粟田祭をもって御霊会としたと伝えられます。

もちろん創立にも感神院祇園社(八坂神社)が関わっています。

一説には貞観18(876)年に感神院祇園社(現在の八坂神社)で祈願を行った出羽守藤原興世が神夢を見、その奏上によって清和天皇の勅許を得てこの場所に祀ったのが始まりと言われています。 

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神楽殿能舞台

鏡板は神坂雪佳の手によるもの。

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出世恵美須神社

牛若丸が奥州下向に際して源家再興の祈願をした恵美須神。

創建年代は不明ですが、もとは三条蹴上の夷谷に祀られていたものの、蹴上で山崩れがあったため夷町金蔵寺に祀られることになり、明治に入って粟田神社摂社として遷ったとのこと。 

 

境内図

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熊本の歴史を見守ってきた花岡山を散策してみました

花岡山はJR熊本駅の北側にある標高133mの山で、熊本市で一番夜景がきれいと言われています。

様々な時代の痕跡が残るこの山を散策してみました。

 

  

アクセス

熊本駅西口から出ると山頂の白い仏舎利塔が見えるので、それを目印に歩いていきました。

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山頂にあった地図です。

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阿蘇殿松跡

六合目近くの鳥居が目印です。鳥居の後ろにある段を下りて奥まで向かうと碑があります。

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文禄元(1592)年の島津家家臣・梅北国兼による梅北一揆において、阿蘇氏22代当主阿蘇惟光は相良家家臣・深水宗甫の讒言により豊臣秀吉から自刃を命じられ、文禄元年8月18日この地でで自刃したとも斬首されたとも言われます。

 のちにその死を悼んだ人々により松が植えられたそうですが、松は残っておらず碑が歴史を伝えるのみです。

なお、後に惟光の弟の惟善が加藤清正に召し出され大宮司職に復帰しています。

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花岡山招魂社

 

阿蘇殿松跡そばの鳥居に向かい合っています。

明治2(1869)年、熊本藩主細川韶邦と細川護久明治維新に殉じた藩士150柱を祀るために建立。昭和32年に遷座して現在の熊本県護国神社となり、ここは飛地境内「花岡山招魂社」ということです。

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加賀山隼人正息女墓(キリシタン殉教の碑)

 

1636(寛永13)年、禅定院にて小笠原玄也と妻みやと子どもたち、奉公人の15人が殉教しました。

その加賀山みや(マリア)の墓が現在の官軍墓地付近より発見され、その横に一家の名が刻まれた碑が立てられました。(写真は碑のほうです)

小笠原玄也の父はガラシャ介錯をして切腹した細川家の家老・小笠原少斎です。

玄也の妻は加賀山マリアの父は1619年に細川忠興のもと斬首されて小倉で殉教した加賀山隼人。

なお、一家の遺した文章は信仰の覚悟がはっきりと述べられているものです。

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薩軍砲座の跡 

西南戦争において薩軍は熊本城から直線距離2キロメートルのこの場所に大砲を運んで城をめがけて砲撃しました。しかし大砲は城内には届かなかったようで、途中の段山や新町に落ちたといわれています。

草が多く見通せないのですが、位置関係を見るとこの奥に官軍墓地が位置しているようです。

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官軍墓地

 

神風連の乱で倒れた官軍兵百十三人が眠っています。

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仏舎利塔

 

花岡山の山頂にはインドのネール元首相から寄贈された白い仏舎利塔があります。

第2次世界大戦の戦没者5万柱の戒名を記した石碑が納められています。

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熊本バンド 奉教之碑

 

仏舎利塔がある広場より一段高く積んである石垣の上、「フィリピン戦没者慰霊碑」を過ぎた場所なのでちょっと分かりにくいです。

横浜バンド、札幌バンドと並ぶ日本プロテスタント3源流の一つ、熊本バンドゆかりの場所です。昭和40年に記念碑がたてられました。手前のスペースは礼拝の場として現在も使用されるとのこと。

1876年(明治9年)1月30日(29日ともされる)、熊本洋学校の生徒三十五人の有志がこの場所で集会を開催し、賛美と祈りを捧げた後に「奉教趣意書」(碑の背面に全文が記載)に署名しました。洋学校閉鎖後、彼らの多くは同志社英学校へ転校することになります。

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清正の腰掛石

 

加藤清正はこの花岡山(当時は祇園山)から熊本城の石垣に用いる岩を採掘したと伝えられています。

清正は休憩のときにこの石に腰掛けると定めていたとのこと。

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清正の兜岩

 

採掘作業では加藤清正は甲冑を身につけていたといわれており、休憩の際に兜をかけたとされる岩です。

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鐘掛松跡

 

山頂からすこし下った車道沿いにあります。

作業の合図を出した鐘をかけたとされる松があった場所です。

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八枚岩

 

鐘掛松跡のある車道を右に進んでいくとあります。

崖下に八枚の平たい巨岩が重なるように突き出しているため八枚岩と呼ばれているそうです。

ここの稲荷明神と加藤清正とのお話はとても興味深かったので別記事でまとめています。

wimwim8282.hatenablog.com

 

 今回見たのは以上です。

 

まとめ

熊本駅から地図だけを見て徒歩で行くと、住宅街を抜けた後は角度が急な階段、そしてラブホ街と廃墟、背の高い草が生い茂る道というコンボをくらいます。帰り道は違う道にしたのですが、今度は墓地の中を突っ切る形になりました。

女性一人で歩いていてもし不幸な事件に巻き込まれても「事故責任」と言われてしまいそうな雰囲気…暗くなってからの散策はおすすめしません。

すべてのスポットを回るためには道を戻る必要もありますが、大きな車道を歩くのがいいと思います。(ただし「落石注意」の看板あり…)

 

 

 

 

 

 

希首座の祠に行ってきました(プラス手打ちの経緯めも)

細川忠興が手打ちにした大徳寺の僧・希首座を祀る祠です。

この際に用いられた脇差・希首座は島田美術館が所蔵しています。

 

 

希首座の祠

 熊本県図書館、くまもと文学・歴史館の敷地内です。(最寄駅は市電の市立体育館前駅)

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正面入り口から見て向かって左手の庭にあります。道なりに歩いていくと塀の向こう側に祠のようなものが見えてきます。

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希首座(きっそ)の祠(ほこら) | スタッフブログ|[公式]熊本市水前寺江津湖公園

この写真を手掛かりに行ったのですが、ちょっと様子が変わっているようです。

 

なお、現在の祠は昭和30年ごろに撮影された写真に写っているものとは違うため、建て替えられたものとみられています。

 

手打ちの経緯

まず、細川忠興と一色氏との因縁について。

細川忠興天正10年(1582)に妹婿にあたる一色義有を宴席に招き暗殺、その一族も殺害した。

救出された妹・伊也は忠興に切り付け、鼻に横一文字に傷を負わせた。

慶長19年(1614)、忠興は大徳寺を訪れた際に出迎えた数人の僧の中の一人・希首座を突然切り捨てた。

一説によると、希首座は一色氏の生き残りであり、仇討ちを果たそうと忠興に近づいたともいわれているが定かではない。

しかしこの後、細川家家臣だった希首座の弟・速水孫兵衛まで上意討ちしているので、何らかの理由があったのではないかと推測される。

大徳寺の僧衆は所司代板倉勝重に訴え出たたものの、細川家を潰せば喧嘩両成敗として大徳寺も取り潰すと言われたため、泣き寝入りする結果となった。

その後この刀は細川内膳家に伝えられたが、細川家に「希首座の祟りにや不思議の事共有」(忠興に奇行がつづいたといわれる)とのことで、希首座の霊を弔う目的で細川内膳家下屋敷(砂取邸)内に「希首座の祠」を建立し、毎年希首座の命日である2月17日に追善供養を執り行ったという。

 

参考資料 

熊本市にある旧江津花壇 (旧砂取邸) 庭園の変遷に関する研究」

http://ci.nii.ac.jp/els/110004307994.pdf?id=ART0006478176&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1465437650&cp=

 

 

綿考輯録巻十八

慶長十一年二月中旬、大徳寺の希首座を子細有て御手討被成候、此事ニ付大徳寺の僧衆、板倉伊賀守殿迄訴状を上候へハ、伊賀守殿仰せニならぬ迄も、越中殿の身体を是非亡し可申と何も被存候哉、夫ならバ一山江戸へも御訴訟有へし、若又夫程迄強く不被思候ハヽ御分別あるへし、大徳寺ニかへても越中殿の身体を御潰し可被成と、よもや公儀ニ被思召ましきと存候と被仰しニより、自ら泣ねいりに成し也、此事に付希首座弟速水孫兵衛を御成敗被仰付候、仕手ハ松山権兵衛・松岡久左衛門ニて候、江戸御普請の石場伊豆国宇佐美ニての事也、諸国の者入込にて候間、騒敷無之様ひそかに仕廻可申旨ニて、益田蔵人宿ニ夜中ニ孫兵衛を呼寄候処、間二油火有之を権兵衛飛越手籠ニいたし、久左衛門突申候、

考ニ一書、此事慶長十九年二月之所に出(松岡か家記も同之)、乍然其比ハ忠興君御在江戸也、右希座主御手討江戸ニての事ニてハなく、御国ニての事と見へ申候、いつれニ江城御普請之年ニて候間今年なるへきか、既ニ速見孫兵衛を仕者ニ被仰付候ハ、伊豆国宇佐美石場ニてと有之、諸侯方伊豆より石を被運候事編年集成ニも見へ申候

又一書、希首座御手討ハ泰巖寺ニ逗留の節也、豊前か肥後か不分明、泰巖寺其時ハ大徳寺妙心寺かの派也しかとも、此節より曹洞宗ニ成申由と云々、

又一書ニ、いつの比にや妙心寺の吉首座并熊本霊雲院の住持に成し僧金西堂下り御咄の序に、三斎君御刀信長を抜て吉首座を切て落し給ふ金西堂は御手水鉢下に逃かゝみしに、和僧ニハ申分なしと仰らるゝ故に帰り畏る、後ニ金西堂人に向ひて、庭前の柏樹子も忘れて本来ノ面目もなき仕合なりと語りし、彼首座ハ筑前の方に密状を遣したる科共いひ、御児扈従衆をかうだいつめのたはむれの科共いふ、妙心寺の一山これを憤り、京の所司代板倉周防守殿江訴訟せられ、江戸江言上ありて給はるへしと有しか共、板倉殿返答ニ、一山ハ御潰し有共、細川家ハわけ有事なれハ御とがめ有まし、御取次ハならす直訴可被成と有しかは、是非なく其儘にて止にきと云々、此事別事なりや、又同事の相違か不分明

 

 

 

 

地震後初めて熊本城へ行ってきました(2016/6/19)

 

2016年6月19日時点での熊本城の状況です。

熊本城周辺にはスタッフの方が多くいらっしゃり安全に気を配ってくださいます。観光やお土産を買うのにとくに支障はありませんでした。

 

 

はじめに 

こんなのんきに観光して1年経たずに震災に見舞われるとは思ってもいませんでした。

wimwim8282.hatenablog.com 

 

立ち入り可能区域に関しては城彩苑のサイトのこの地図が分かりやすいです。

http://1592.jp/img-ftb/1605annai.pdf

「今しか見られない!熊本城の新しい見どころ」というタイトルが目をひきます…ポジティブ…。

スタッフの方にも崩落を指して「ここ撮影スポットだよ!」と教えてくれる方もいるので、「観光なんて不謹慎かな…!」などと悩む必要はありません。

 

今回は伝統工芸館を出発して城彩苑から熊本城へ入ったのですが、棒安坂(徒歩でのみ通行可能)から城の敷地に入り、加藤神社を見てから城彩苑へ出るルートが時間のロスは少ないようです。

勝手に城彩苑からしか入れないかと思っていたため、結果的には遠回りしてしまいました…。

 

石垣近く等の危険な場所には立ち入りができないよう柵が設けられています。随時スタッフの方の指示に従うようにしましょう。

2016年6月19日現在、城彩苑と加藤神社は立ち入り可能です。ただ、道がところどころ通行止めになっているので事前に市や熊本城のページでチェックするのが良いでしょう。

  

北十八間櫓、五間櫓

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石垣が崩落しているのが北十八間櫓、写真の右手にあるのが五間櫓です。

写真には写っていませんがこの奥にある東十八間櫓と北十八間櫓は本震を受けて崩れてしまったとのこと。

 

熊本大神宮

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十八間櫓と石垣が落下したため社務所がつぶされてしまいました。この被害状況を実際に見ると怪我をされた方がいなかったことが奇跡のように思えます。

現在、鳥居より中には入ることができません。鳥居の下にお賽銭箱が置かれています。

 

熊本城稲荷神社

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熊本大神宮のおとなりです。

こちらは通常通り拝観可能ですが、鳥居にひびが入ったり階段が地面から浮いたりしています。

こちらに祀られる伝承については下記。

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長塀

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熊本城稲荷神社~城彩苑まで歩いていくと長塀の一部が崩壊している様子が見えます。

長さ242メートルのうち約100メートルにわたって倒壊しているとのこと。

 

馬具櫓

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石垣が崩落しています。5月中旬に激しく崩れたとのことです。

 

飯田丸五階櫓

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一本足の石垣で支えられた建物としてメディアで取り上げられている飯田丸五階櫓は城彩苑向いの開けた場所からちらっと見ることができます。

スタッフの方がいて、「この木の間からテレビでよく出る櫓が見えますよ!」と教えていただけました。

中央部分にちょっとだけ残った石垣が写っています。

ちなみに熊本市役所の上のほうの階からだとよく見えるそうです。

 

城彩苑

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ほとんどのお店が営業再開しており、ステージでのイベントも開催されています。

熊本城おもてなし武将隊も活動再開しているとのこと。わたしが訪れたときにはゆるきゃらの服部金蔵くんがいました。個人的に彼とはエンカウント率が高いです。

鮮馬刺しの菅乃屋の馬肉コロッケ、氷川町の白玉屋新三郎の和スイーツなど、熊本の名産品が多く取りそろえられています。

なお6月20日から陣太鼓と歌仙拵のレプリカで有名なお菓子の香梅も営業再開となります。

城彩苑の奥の階段を上っていきます。このように立ち入り禁止エリアを記した地図が貼ってありました。

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未申櫓

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このあたりは西出丸と呼ばれるエリアで、10年ほど前に行われた復元工事でかつての姿が再現されたばかりのところです。

外から見る限り、この未申櫓は目立った損傷はないようでした。

 

二の丸駐車場

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決められた道を歩いていくと駐車場です。途中で普段歩行者は通れない坂をのぼるれます。

駐車場内の建物は瓦?が落ちかかっているところが多く近づけないようになっています。

 

二の丸広場

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二の丸駐車場を抜けると二の丸広場です。

ここからは熊本城を取り囲む石垣がよく見えます。中の土がむきだしになった場所もあります。写真左に見えているのが戌亥櫓です。

 

戌亥櫓

 

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西出丸の北西に位置する戌亥櫓は足元の石垣が大きく崩れ、角石に支えられている状態でした。

この付近は石垣がかなり落下しており、木が根っこを露出させて落下している様子も見えました。

  

加藤神社

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土嚢が積まれた北大手御門跡を通ると加藤神社です。ここは工事用の大型車が通ることもあるようなので曲がる際には気を付けましょう。

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現在立ち入り可能な区域で宇土櫓・大天守・小天守が一番良く見えるのが加藤神社です。

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境内には加藤家ゆかりのものが残っています。

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 この加藤神社と熊本城稲荷神社の御朱印帳は表紙に熊本城が描かれていてとても素敵です。

 

棒安坂

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棒安坂を下ると熊本伝統工芸館のちかくに出ます。

下りたところから見るとこうです。徒歩でのみ通行可。

 

おわりに

 

一周ぐるっと回ってみるとだいたいこういう感じです。

何度も楽しく観光した場所の痛ましい現状を実際に見ると涙が出そうになりますね。

 

ちなみに崩落した石材を仮置きしているスペースなどもあり、解説も置かれています。

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観光客が訪れる場所はかなり念を入れて整備・補修をしているように感じましたし、個人的には安心して観光を楽しむことができました。

 ぜひふっこう割などを利用して熊本へ。

 

熊本伝統工芸館で蛍丸の押型を見てきました

蛍丸の押形が初公開されている熊本伝統工芸館に行ってきました。

初めての熊本伝統工芸館でしたが、熊本県の伝統工芸について詳細に知ることができるとても充実した内容でした。

 

 

熊本伝統工芸館について

熊本城すぐそばに位置し、熊本県内をはじめ国内の優れた工芸品による企画展を開催しています。

1Fでは工芸品の販売をしており、ワークショプ室?のようなところでは包丁の研磨や竹細工の実演がされていたようでした。

2階に企画・常設展示室があります。

熊本県伝統工芸館収蔵品 ベストコレクション「工芸を透して感じるその時代」展

開催日程:平成28年4月1日(金)~平成28年7月18日(月・祝) 9:00~17:00

休館日:月曜日(祝日または休日の場合は、その翌日)

料金 : 大人210円(140円) 大学生・短大生・専門学校生は130円(100円) ※( )内は、20名以上の団体料金  高校生以下は無料

  

展示について 

展示室入口から向かって右が企画展、向かって左が常設展(伝統工芸について)ということだと思います。

 

まず企画展から。

この蛍丸押型、今回が初公開とのことです。

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現在は行方不明の蛍丸ですが、肥後藩士・松村昌直が著書の『刀剣或問』で下記のように

はじめ薩摩の伯耆守正幸の門に入り、のちに水心子正秀・山村綱広にも教えを受けたといわれる人物で、当時から刀剣鑑定家かとしても知られたとのこと。

地鉄濃やかにしてうるわしく、焼刃は小直刃と見まがう程に小乱れを焼き、横手下より帽子のかへりまで連なりて小沸あり、如何にも見事なり、太刀の長さ三尺三寸余、幅一寸三分、厚さ三分九厘、重さ四百七十銭目余、佩表に長さ二寸一分の護摩棒を掻き雙べ、其頭に八幡菩薩の文字あり、佩裏には長さ六寸八分の剣を切り、頭に梵字を雕りたり、然れとも、文字は何れも磨滅してかすかなり、表裏ともに棒樋を掻いて、始と茎先に及べり、連樋も同じく半ばに及ぶ、茎長一尺一寸余、佩表に來國俊といかにもあざやかに銘し、裏には永仁五年三月一日と記せり、反一寸余、釣合・恰好・銘・茎の形の殊勝なること詞にのせがたし、数百歳の今、磨き減りしたれども、普通に越えたる大太刀なり

 

この展覧会のチラシに掲載されていた伝宮本武蔵不動明王本像は地震の影響で展示中止になっていました。宮本武蔵関連ではこの2点。

海鼠透鍔(写)と巌流島宮本武蔵使曳形木刀(写)

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同田貫薙刀(銘 九州肥後同田貫藤原正國)です。

ケース内には「きれいな形してますね!」というコメントが書かれたパネルがあってちょっと笑ってしまいました。

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次は常設展について

こちらでは熊本の伝統工芸の製作過程が分かりやすく紹介されています。

 

肥後象嵌

こんなふうに出来上がるんですね。

 

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肥後三郎弓

この状態のこんな大きいニカワ初めて見ました。

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山鹿灯籠

朝ドラ「オードリー」でも登場した山鹿灯籠。

2Fに上がってすぐのところには山鹿灯籠の技法で作られた熊本城があり、現在の被害状況と照らし合わせた解説も用意されています。

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和包丁、肥後の鍛冶など

研ぎ方とかも紹介されていました。 

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このほかにも熊本における伝統工芸の年表などもあり、非常に充実した内容でした。